死者儀礼を何故行うのか?

お念仏の謂われを聞き開くことは、普段の聞法
が大切。それは自分にとっても同様だ。
その一点を明らかにしていくことが法要を勤める
核心だ。
だが、御門徒の法事は念仏のおみのりを相続してい
くということがはっきりしないままとり行われるこ
とが多くなっている。しかし、尚勤めるのは何故か。
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その一考察を、内田樹氏の文に見つけたので紹介
したい。死者との対話が人間を人間たらしめる要件
だと仰る。

内田樹氏ブログより引用)

人間は死者ともコミュニケーションできるというか、
死者とのコミュニケーションこそが人間的コミュニ
ケーションの原型である、というのが私の考えである。
だって、人間以外の動物は死者とコミュニケーショ
ンしないからである。
葬儀というものを行うのは人間だけである。
「正しい葬送儀礼を行わないと死者が祟る」という
信憑を持たない社会集団は存在しない。
「祟り」というのはすでにして(ネガティヴなかた
ちではあるけれど)死者からのメッセージである。
「死者がもたらす現実的効果」と言い換えてもいい。
「正しい葬送儀礼」を行うと、死者は「去る」。
「葬送儀礼」を誤ると(あるいはネグレクトすると)、
死者は「戻ってくる」(「幽霊」をフランス語では
revenant 「再帰するもの」と言う)。
そして、「正しい葬送儀礼」、つまり死者をして去ら
しめる唯一の儀礼とは、死者を忘れることではない。
(一部略)

正しい喪の儀礼とは、「死者があたかもそこに臨在し
ているかのように生者たちがふるまう」ことなのである。
手を伸ばせば触れることができるように、語りかけれ
ば言葉が届くかのようにふるまうことによって、はじ
めて死者は「触れることも言葉が届くこともない境位」
に立ち去る。
死者に向かって「私たちはあなたといつでもコミュニケ
ーションできるし、これからもコミュニケーションし続
けるだろう」と誓約することによって、死者は生者たち
の世界から心安らかに立ち去るのである。
というふうに私たちは信じている。
この逆立したコミュニケーションの構造が人間の人間性
を基礎づけている。

わたしが死ぬとき、あとにのこる人
が、私を忘れず、対話していてくれると思えば、心のこり
がなく安心する。そういう心を投影したものによって死者
儀礼がとり行われるのだろう。
死者との対話が、人とひととのコミュニケーション
の原型だという考えが以下に展開されていて興味深い論考
となっている。
内田氏の考えに自然に頷いた。”死者との対話”すること
か。先祖供養もこのような切り口で観ると、また違った意
味を読みとることが出来るのかもしれない。