大浜騒動2−0 再開にあたって、

こんどは一番事件の中心にいた石川台嶺師の日記
を読みたいと思っている。


宗教という言葉もない時代、
お念仏の信心に初めて自己を見いだしたひとたち。
その純一なありかたは、
いまの自分とはあまりにかけ離れていると思える。
だが、
なぜ、強く訴えかけてくるものがあるのか?


できるだけ今の自分と生きた時代も生きた場所も
縁の遠い人間の書いた本を読むこと。
世界観も宗教も感受性も身体感覚も、まるで違う
人のものを読んで、それにぶるぶるっと共振する
ものが自分の中に見出せたら、その震えは「人間
にとってかなり汎通性の高いもの」だということ
である。
ある種の書物が歴史の風雪に耐えて何千年、何百
年と生き残ってきたのは、そのような共振力が他
に比して圧倒的に多いからである。

内田樹氏のブログより引用)


と、あった。そこから比べればたった百数十年な
のだが、師の日記から共振するところを書き出したい。
宗教のおかれた状況は想像をはるかにこえた大きな断層
が、この百年足らずの間に存在するのだ。それは千
年にも匹敵する距離があるのかも知れない。
そんなことを考えつつ、抜き書きだけでもしてみたい。