大浜騒動1-7 章の終わりに・少参事服部純答弁書を読む


▲服部純が赴任した大浜陣屋の図

・服部純氏は、
 寺院統廃合をすすめるにあたり、前もって僧らに回答を
求めた。
 これが事件の発端となったのである。
この件についての藩へ答弁書の冒頭は、

「右合併の儀は、この地の民俗僻仏の風習にて、容易に
施行いたし難き儀、深く憂患し候・・・」

と、始まる。
 今後も、村の有力者や僧等とその問題点を見極めてすすめ
ていきたいと結んでいる。


 この文書にある「僻仏」とは、よい言葉ではないが仏法
がさかんであるということを認め、そのために思うように施
策をすすめることが出来ないことを嘆いている。


1章を終えるにあたって、

 国学を学んだ熱心な官吏である服部氏は、彼が信じた近代的な
方法で、行政を改革し、教育をすすめようとした。三河の歴史や
文化に理解をもつ余裕も経験もないまま、権力をもって強引にお
しすすめようとしたのである。


このとき行われた神仏分離の施策は、
 仏教にあつい信仰をもつ人々のまえで思うようにすすまな
かった。若い行政官が行った、幼稚で素朴すぎるものだった
といえる。

 しかし、驚くべきことにこの素朴過ぎる神道政策が、事件
の18年後に出来た「大日本帝国憲法」に形をかえて顔を出
してくるのである。


この大浜騒動では、行政官が押し進める神祇崇拝政策と、
地域の伝統に培われた信仰生活との、二つがなじまぬもの
として相対し、激突した。


それが、国家神道として帝国憲法のなかにとり込まれる。
国家が行う公の宗教としての「神道」と、そのもとで国家の安
寧秩序を妨げない限り許される私的な宗教という二層の構造
として現れるのである。
 ”国家神道”。政治的に宗教を立てることは、板垣退助など
自由民権のリーダーたちは荒唐無稽なものとして問題に
しなかったという。だが太平洋戦争時、予想できないほどの力
を持って人々のこころを縛る装置としてはたらくことになる。
 それは、いまだに現代の私たち日本人の精神の有り方に大き
な影響及ぼしているのである。