大浜騒動1-3 廃仏はどのようにすすめられたか? 



維新政府の打ち出した、神仏分離の政策に対して、
真宗門徒のみひとり、何故激しく抵抗をしめしたのか?
そのころ押し進められた政策の暴虐性とそれに対応した真宗
門徒の姿をよく伝えていると思われるので、大浜騒動以外の
一つの事例を紹介したい。
 廃仏毀釈の爪痕を現在までのこす苗木藩についての考察部分。
「神々の明治維新」(岩波新書)より抜粋。

「苗木藩は廃仏を断行した藩として知られる。明治3年8月、
村々の辻堂や路傍の石仏石塔を毀し、領内全寺院を廃棄した。
 10月、領内巡視していた知事が、庄屋宅の仏壇を発見。
仏壇を庭に持ち出すように命じ、本尊脇仏を取り出し、土足
で踏みにじり、火中へ投げ込んだ。これを見た庄屋の妻女は
、狂乱のようになって、本尊とともに身を投じて焼死しようと
して、周りのものから抱き止められた。
 苗木藩の廃仏毀釈はきわめて徹底したものだったため、現在
でも旧苗木藩領の大部分は神葬祭であるが、真宗門徒には帰宗
したものが多い。それどころか、もっとも抵抗したのは真宗
徒だったこのは、この政策が撤回されたあとでは、真宗の評価
を高めた。
 真宗門徒は仏壇を家ごとにそなえ、在家での説教、法談を行
い、神祇不拝の態度をとった。
 こうした性格は明治初年まではいっそう顕著だったと思われ
る。
 要するに、真宗では民衆の宗教生活にかなり発展した独自性
があり、日常生活全体がこうした宗教生活を軸に編成されてい
るという点で他の宗派と区別される。それ故神仏分離以下の国
家政策との葛藤もいっそう厳しいものとなった。」