蒟蒻問答

今日寺を訪れたひと曰く、
「いろいろ思索しておられるようだが
分かっているのかどうか」と。
答えて、「人生がわかってしまったら、
そこでおしまい。
わからんということが分かったら
ひたすら、探求することが始まる。」
昨日の、
京都の集いはそのようなことだったと思う。
求める人の迫力を感じた。
そこに、悠然と道を求める
人々がおられた。
お経の「尊者」たちだ。
それは偉大なる「わからんものを
抱き、求める人々の集まり。」一心に
ブッダのこころを求め、法に耳を傾ける方々
がおられた。
そんな人々がおられたことを発見した
だけで力がわいてきたのだ。
(それが西本願寺のご住職だったのは、
ちょっとショック。こんなとこに宗派
根性がでてくるなんてなさけないが。)

この,純粋生きることをを希求する。
毀誉褒貶、思い通りになるのかならないか、
それらを最大問題のようにして一喜一憂しているが、
それで一生すぎてしまっていいのか?
と叱咤する声を聞いたのだ。


つまらないことと、大事にしなければ
ならないことの分かれ目がいまここに
ひらいている。


だからといって、些事にこだわるひと
を馬鹿にするわけではない。
言わずもがなだが、
それは自分の姿でもあるし、自分はけっして
超越した者ではない。