住職のある一日

現在庫裏の再建のさなか、
それも、もう終盤というところまできた。
昨日電話の移設をしたら、かけることが
できなくなっている。


午前中はそのためのNTTとのやりとりで過ぎていく。
(なんとか昼食を挟んで、午後2:00には復旧。)


午後2:10から、おくやみとつきまいり。
午後4:30帰寺一休みしてから、
午後5:10本堂の華瓶の水を換え、青木の枝の先端を
      水あげがよいように少しづつ剪る。
午後6:10内陣を水ぶき。
      それからおゆうじ。
おつとめしながら、昨日読んだブログについて思った。


「”ただ念仏”という言葉にリアリティが感じられない」というような
書き込みだった。
それを読んで考えたのだ。
そのように彼が言った瞬間、
逆に、「念仏にリアリティがないと言い募る汝に、
たしかなものがひとつでもあるのか」
と問い返されるのだ。
世間の評価に揺れ動き、思い通りになるかならないかということ
に一喜一憂しているもの等よ、
汝が握りしめている現実と、
その迷いに沈むものを救おうとして建てられた誓願とどちらが
たしかなものなのかと。
仏の御名を聞くとき、
汝には、
なに一つ確かな根拠がないということが明白に知らされる。
汝とは勿論、私自身である。