大浜騒動1-5 資料を読む 少参事服部純答弁書 から


碧南市新川小学校蔵 服部氏自筆
熱き改革の志をもって、三河に赴任した役人服部純氏の
事件後の答弁書


・服部純氏が行ったこと


先ず、赴任地の子どもたちに教育をほどこした。
新民序・新民塾をもうけて、8歳から16歳までに限って、
算筆・五倫の道を教えたのである。
その教育の場で子どもたちに「神前の祝詞」を唱えさせよう
とする。しかし、

「当国信仏頑固の風習、神拝・祭礼にも大声にて念仏相
となえ実に耐えざる次第にて、神慮のほども深くおそれ
いり候あいだ、神前念仏の儀は相とどめたく教諭いたし
そうらえども・・」

当時の人々は、
神さまの前でも、念仏を称えていたことがわかる。
しかもそれは、8歳から16歳までのこどもたちであった。
当時の真宗門徒の姿が浮かび上がる。
現在からは失われた、念仏の声。けっしてそれは呪文
ではない。親鸞によって明確にされた、命の尊さに目覚め
させる呼び声、覚醒への感謝の念仏であった。人がひとと
して生きられる根拠となるものである。それを禁止したの
である。


しかし、国学を学んできたものには、神前の念仏は、甚だしく
不敬のことと映り、厳しく戒めたことが伺える。
若き官吏には、おろかで「頑固な」民衆がとなえる呪文としか
理解できなかったのだろう。


このことは、天拝・日拝、神前の祝詞の強要が、真宗側からは合併
問題より重大な問題と考えられた事柄である。役人と僧侶との談判
では、真宗の宗風を毀さないでくれという要求が強く出されている。
この資料では、
子弟の教育の場で、真宗門徒が一番大切なことが、不理解によって
いとも簡単に壊されようとしていた、ということを確かめることが
出来る。
そのような教育が為されていると聞けば危機感や不信感を抱いたで
あろう。
そこに大変な精神的な軋轢が生じているのに、
そのことを理解できない役人と、門徒の心情との落差の大きさを感じ
ざるをえない。