サトリ

「サトル」ということば
を日常の会話で聞いた。

さとり、サトラレ、悟っちゃう。
まあ、よく使われる言葉では
ある。
しかし最近聞いたことがなかったので
新鮮に響いた。


もちろん
お経を読むと出てくる。
それは、
究極的境地だが、
仏陀となった者のみ
知る。

迷っているものにとって、
さとりは、
断絶があり接点がない。
まよいからさとりへ
橋は架けられない。


しかし接点がないまま
だと、サトリがどんなに深淵な
境地であり、真実であろうと
独りよがりとかわらない。



悟れるものと迷えるものとの間に
大きな断絶があるのだが、
さとりはその真実である証として、
いまだ迷い苦しむ存在を
救わずにはおかないという
運動をおこさざるをえない。


迷って苦しむものを原因として
起こされる運動があったと知るのみ。
そのことを信心と名づける。
それが発起する源はさとりから発する。
仏の御名を聞け!とはそのサトリそのものが、
はしにもぼうにもかからぬ
ものに真実をとどけようとする究極の表現。