法話

午前10時半法事。法事の間に法話をした。
このあいだぶつぶつトークで書いた。重度の
障害を生まれながら持つ子のことを。
あのこから自分自身、生きる基本的態度を学んだ。
へこたれ気味の自分の生活にカツを入れてくれた。

そして法事の最後は、末代無智のお文について、
正法の時代は、釈尊の偉大な存在にであった人々は
謙虚にその尊さを尊敬し、仏法を真にもとめる。
しかし像法の時代になれば、いささか人間は傲慢になり
形ばかり尊重し、謙虚に求めることが出来ない故に
悟りをうることが出来ぬ。
そして我が末法の時となれば、ますます増長し傲慢になる。
仏法なんか聞かんでも充分いきていけると豪語する。
そして教育を受けて、何でも知っていると思う。
しかし、いかにこの生が大切なものかを知らない。
何故この生をうけたのかも知らない。
生きてることに対する深い感謝の感覚もない。
大事なものはすっぽり抜け落ちているのに、
それに気付かず、なんでも知っているという傲慢な
者を無知というのだ。そんな
どうしようもない
存在を末代の無智。傲慢な者なのだ自分は。

その他箇条書きにすると、
・名号をー御名を聞くということ
・迷っているものを自己に呼び返す声として
午後も法話