報恩講初日

午後6時半から勤行。
そして、お経とジャズのもよおしが始まった。
心配していた人の集まりも
みなさんの協力でたくさん来てくださった。

Nさん、Fのみんな、Tさんほんとうに
たくさんのかたがたが声を掛けてくださったのだ。
忘年会で間に合わないかもと心配していたSさん
も後半に間に合ってよかった。

IさんS君が縁の下の力持ちで支えてくれた。
音響と照明のお陰でよいコンサートになった。

Fコーヒーから出張して淹れてくれた。
たくさんの参加者に予定外の大量注文に対応してくださった。
ほんとうに、みなさんのお陰をしみじみ感じた次第。


そしてコンサート
お経とジャズと語りは、
すばらしい盛り上がりを味わった。
ありがとうよい時間を!
田中さん
やリクエストを受けないという中山さん
にいろんなリクエストをしちゃいました。
ごめん。

急遽お願いすることになったP佐藤さんも。
初め、ちょっとぎこちないかなという緊張感のあと、
数曲後、すばらしいベースとピアノの競演が始まった。
また、アンコールの曲が美しく、こころに響く。
よかったです。
うん、こころに響いたというのが私のきょうの感想。



田中さんにはとくに無理な注文を出した。
指鬘外道アングリマーラのお話を是非にとお願いしたのだ。
ある教団の(アヒンサカという名をもつ)エリート青年
が主人公である。
その彼に、一人殺す毎に、人の指を首飾りにして
百を数えるまで殺せという師の命令が下ったのである。
(その先生も、実は色欲から出た妻の嘘に騙されて
いたという生々しいお話。)
師の命令によって、冷血な殺人者となった彼を、
人々は恐れ、アングリマーラと呼んだ。
社会からも見放されて底のない深みに落ちていく。
その深淵から救ったのはブッダの智恵の眼そのもの。
彼に同体し、
狂わされ、自己を見失っている自分の姿を
見せ、真実の主体を生み出すという物語。


真実主体を恢復することが信心のはたらきであって、
それ以外に信心というものははない。
それなのに、宗教の救いというと自己を見失っていく方向
に捉えることが如何に多い事か。(私も例外ではない。)
この対比を、狂わせる師と目覚めさせるブッダ
見事に表現しているお話なのだ。


真実の自分を見せ、真実の主体を恢復させたものは、
ブッダの智恵そのものなのだ。
迷わされている自分を自分で気付くことは、
不可能だ。例えば、これじゃいけないと思っても
つぎにまた迷った自分の思いに縛られていくのが我々の
つねの姿。
ブッダの智恵の眼が、
まよっているものの眼となって、
迷わされている自身を自覚させる。
目覚めには、隔絶したものがある。




狂わされていくアングリマーラは、
語りを聞いているわたしと重なって見え、
その者と大悲によって同体してくる
はたらきをブッダの智恵として表している。
真実の主体を生み出す物語。
そういうかたちで
信心とは何かということを端的に表現している。


むつかしい内容を、
高度な演出で演じて下さったと思う。
ご苦労にただ感謝。


報恩講をこんな形で住職が楽しんでしまってよいのでしょうか?
報恩考。よーく考えなくっちゃいけない。






音響に照明に力を貸してくれたIさん
ほんとに、ありがとう。