なまなましい内容なんだ、経典って。

生きることになんの意味があるの?
楽しいことが続くのならいいんだけれど、
絶望、別れの哀しみ、絶望感やら倦怠感がおそう
ことが度々・・・
あんがい生きてくって現場は、過酷なところなんだ。


そんなことを思う今日この頃。
ふと聖典を手にとると、こんな箇所に出くわした。
(西聖典、p728 弥陀如来名号徳)
それは、
あみださまの異名である「清浄光」を釈して、
法蔵菩薩、貪欲のこころなくしてえたまへる光なり。
貪欲といふに二つあり、一つには淫欲、二つには財貪
なり。」


淫欲、それはこの間新聞を賑わしていた、なんとか学園
の学長だったか、
いい年をして、セクハラに及んだ方の墜ちる原因を作った
もの。
いい年をしてと言って嗤うが、それは自分のなかに存在する欲
でもある。無関係ではない。
また、財欲もしかり。
明日食べていけるか心配し、あればあるだけ
欲しいなんていうのが財欲だ。
防衛省の官僚にだけあるものでもない。
その欲によって人生の最後にこけてしまう人が見せてくれた
のは、
ひとのあやうさ。


そしらぬ顔して、すまして生きているが、おなかのなかは
そんな欲でいっぱいなのだ。
そのことを認めるから、どーかその欲に翻弄されないで
くれという仏の願いが切実に届く。
仏が、あまりにあやういわたしにかけた願いがある。
どーか
人生を大切に生きよという、存在の根底から呼び掛け。

「清浄仏」という異名は、淫欲や、財欲いっぱいのわたしへの
切実なるほとけの叫びそのものを表現している。
自分に与えられた限りある生を本当に大切にすることを
知らないわたしに向かって。

長久手・喫茶 「木曜日」