戦争を伝える”哀しみの南京”と”シャンハイムーン”の二つの劇

朗読劇”哀しみの南京”
すごい渋滞のなか一時間半以上かけて
岡崎セキレイホールにたどり着く。
だいぶ遅れたので、もはや劇は始まっていた。


前半は、戦争犯罪人を父に持つ夫の苦悩に焦点があてられ、
後半は、その妻に。彼女は父親が戦地に赴かなかったため
戦争責任ということがピンとこない。だがよくよく考えればその父は戦争で
金儲けをていた。虐殺していた兵隊より自分の父のほうが罪深いと
思い至る。そのおかげで裕福にそだった自分も。
ここで彼女と,
観ている私自身(戦争への責任を感じ得ない鈍感な者)とかさね合わさ
れるという訳だ。


朗読されるものは、証言記録が多くを占めるので
全体の印象はドキュメンタリータッチ。
中身はなまなましいもの。それが再三繰り返されると
平面的になっていき、こちらの感覚も麻痺してゆく。
(虐殺と暴行の証言が繰り返されるのだから。)
それを伝えようとする熱意がすごい。それ故少しひいてしまうところもある。

しかし、
戦争があったことを忘れていく、または迫害の事実をみないようにする動きもある。


そんな今だから、このような取り組みが必要なときなのだろう。



一方、劇”シャンハイムーン”は、

同じ15年戦争の情況を伝える劇がこのまえ
この劇場で素人の劇団が上演されたものだ。
シャンハイムーンである。
戦争が生み出す耐え難い、矛盾とその苦しみを伝えていた。
魯迅と彼を取り巻く日本人、そしてそれを迫害する中国や日本の人々。
そこでは一般の民衆も加害者だった。
戦時の哀しみをよく表していて、胸に迫るものがあった。

この劇はユーモラスであったり、劇自体も静かな展開であり、
けっしてどぎつい虐殺や暴行場面はないのである。
しかしこのほうが、自然に登場人物へ感情移入してゆき、愛着する感情すらうまれ、
それを無慈悲に破壊していく戦争というものの輪郭を露わにする。