読書から-宗教って、私的なもの?

仏教に限らず宗教というものは、
この日本では
おとなからこどもまでおおきな誤解といったもの
に取り巻かれている。


そのおおきな誤解からはなしが始まることが多い。
まぁ、仏教で言えば、坊主をみれば死。寺はそーしき
といったものは序の口として、
「信仰は私的なもの」というものだ。
こうなってしまったのは明治の帝国憲法の規定により、
むかしからそうだったわけではない。
歴史のなかのほんの短い期間だけの特殊な観念なのだ。


かえって仏教は、
ひとは、私的に生きているわけではなく、
多くの命に支えられ、社会のなかで多くの要素が支え合って
このわたくしがあると考える。
私的になる傾向を強くもつわたしたちのあり方を
覆すものなのだ。
だから、ささえることができることは深い生の喜びとなる。
自分一人で喜んでいることはたいした深さはないし、
真に喜ばせるものとはならない。
私とまわりはひとつながりなので、
ささえてくれているものをおろそかに思っていると
このわたしの命も、枯れ果てていく。
逆に、大切に感謝して接すればこのわたしも深まり
尊いものとなっていく。
私的に生きると、その命は大事なものをそこなうと
いうことを教えてきたのだと思う。
私的になってしまうわたしに、その歪みを教えてくれるものだ。


それが社会を成り立たせる基盤だろう。
その基礎を失おうとしているのにその原因に無関心に見える。
ただ社会が悪くなったと嘆くばかりではどうしようもない。