往生

往生は死んじゃったとき
大往生なんて使うことがあるが、
死ぬという意味はない。
または、
大阪弁で、
困ったという意で、「おうじょうしちゃうわ」
なんて使うこともある。
それらは、
おおきくその言葉が伝えようとする
ものとずれている。


そんなずれに現代人は無関心である。
だが、
それはおおごとなのである。


親鸞や偉大な仏教者が生涯をかけて
あきらかにしようとした
エッセンスがその言葉に託されている。
わたしたちは、
自分の立場、自分の都合、自分の欲求
にしがみつき、それをよりどころにせざるをえない
存在である。
思想や宗教もそれ等を強固にするため
に使われることが多々ある。
しかしそれは私たちを束縛の地獄に落とす。
主体を奪い、なにかの奴隷とするみちでしかない。


それを迷いの大地だとしらせるもの、
それが浄土である。
我執やそれを強固に塗り固める法執を
まよいとしらせ、
真実の大地にたたしめ、束縛からの解放を
実現する。それが浄土往生の道だ。