帰命無量寿如来

きみょうむりょうじゅにょらい
サンガ唯法寺通信のために校正版抜粋採録


 「死んだひとは阿弥陀様になるのでしょうか?」先日の会でそんな話が出た。それにたいして即座に参加者から、あみだ様とか浄土へ行く、とか言うよりも、今話題の「千の風」という歌のほうが分かりやすい。という意見が出ました。
 確かに!と私もつい頷いた。浄土といい阿弥陀という表現をスッと受け入れる事の出来なかった己があったからだ。
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それは、正信偈の最初のところを読んでいるときのことでした。
 「南無阿弥陀仏が帰命無量寿如来」と漢訳されています。そこで、「無量寿」ということは、どのようなことなのでしょう。無量寿、けっして滅びることのない命とは?いのちを永く保つとはどのような事なのだろう。
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「たとえば、あなたが子や孫へ深い愛情で接したとする。暖かい気持ち包まれた経験をもった子は、おばあちゃんから受けたことを、また周りのひとに注いでいく。そのように受け継がれて、深いおばあちゃんの心は生き続ける。それが永く寿命をたもつということなのだと考える。肉身の命をながくたもつということではない。
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だが、私たちからは、真実に永く保つような心は出てこない。私たちのこころはどこまで行っても浅く、我をはるようなものしかない。どこまでも自分の都合に執着する濁りを持っている。仏さまのこころに接して、教えが鏡となって、その浅さや濁りのなかにいる自分の姿に気付かされるのだ。そこに滅びる事のない真実、純粋な仏心がはたらいている。
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真に滅びないものを無量寿という。
それはブッダのこころの中心に輝く光。
 南無阿弥陀仏御名を聞きつつ日暮らしされた亡き人。ほけさまの用きを頂いて生きられた人は、暖かで深いものを遺す。それは、遺された人々のなかで生き続けるのだ。