この生をどう受け止めるのか。

午前は親戚の法要で岡崎へ
とってかえして、午後おまいり。
お経のあいだに話して、考えたこと。

よく「いかされている」ということ
が他力の信心の
内容のように表現されることがある。
これが気になっていた。

では、
生まれてきたことはどうなのか。
この世に投げ込まれたもの
という、そういう側面はある。
また、いろいろな条件によって心も
からだも左右されざるをえないだろう。
しかし、それだけではとらえられない。
抜け落ちる大事な視点がもう一つあるんじゃ
ないのだろうか。
こういう視点を捨ててしまってよいのか。


仏教徒は、生まれてくる原因は、
自分自身にあると受け止めてきたのではないか。
人界の生を受くるには五戒をたもてる
功力によってなりとある。
いのちの壮大な物語がそこにあった。
この生はあなたが、願い願って努力して
やっとその願いが実現したものだという。
そのように考えたとき、
この生は、全然ちがった様相を示す。