だいじなことがとんでしまう

君が代斉唱時に
起立しなければならない条例について。


このとき
議論し考えあうことが
必要なのに
大事なことはどうでもよくなって
しまう状況は
非常にあやうい社会。


内田樹氏のブログ
2011.05.17
http://blog.tatsuru.com/から
国旗国歌についてこれは記録しておこうと
思ったので、


国旗国歌法」によって国旗国歌は1999年に定められた。
その法律制定当時の首相であった小渕恵三衆院本会議で、共産党志位和夫議員の質問に答えて、こう述べた。
学校における国旗国歌の指導は「国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております」
さらにこう続けた。
「政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません」。

国旗国歌法制定の趣旨は「国民として必要な基礎的、基本的な内容」の習得である。
それだけである。
だとすれば、「国民として必要な基礎的、基本的な」学習内容とはいかなるものかという教育論がそこから始まるはずである。
始まらなければならないはずである。
だが、始まらない。
始まったのは教員の処分と違憲訴訟だけである。
この法律は公民教育を督励するためのものであり、教員に儀礼的ふるまいを義務化するものでも、個々の教員の教育理念や教育方法を制約するものでもない。私はそう理解している。
というのも、まさに「公民教育はいかにあるべきか」という激烈で生産的な議論が終わりなく現場の教師たちによって、あるいは親たちによって、あるいは教育学者や教育行政官や政治家を巻き込んで続けられ、その過程でひとりひとりの教員が自説を論証するために、多様な教育方法を創案し、工夫することこそが、日本の子どもたちを市民的成熟に導く捷径であると私が考えているからである。
だが、私に同意してくれる人はきわめて少ない。
話を大阪のことに戻す。
維新の会は条例案を思想信条にかかわる問題ではなく、単なる公務員の服務規定違反の問題であるとしている。
だが、政党が発議し、知事が反対者の免職を示唆し、それに抗して「違憲ではないか」と疑義を呈する人々がいる以上、これは政治問題以外の何ものでもない。
これを怠業とか背任とか情報漏洩とかいった公務員の服務規程違反と同列に論じることはできまい。
繰り返し言うが、国旗国歌問題は「公民意識を涵養する教育はどのようにあるべきか」という、すぐれて教育的な問いとしてとらえるべきだと私は考えている。