「父が死に…」メモ

父親が死んで、小さな骨壺と遺影を置いた棚に向かって、無人の家に帰るたびに「ただいま」と挨拶して手を合わせることが習慣化したときのことである。
死んだ父はもう「存在しない」。けれども、父の語ったこと、語ろうとしたこと、あるいは父がついに語らなかったことについて、私は死んだ後になってからも、むしろ死んだ後になって、何度も考えた。
そして、そのようにして「解釈された亡き父親」が私のさまざまなことがらについての判断の規矩として活発に機能していることにある日気づいた。
存在しないものが、存在するとは別の仕方で、生きているものに「触れる」というのは「こういうこと」かと、そのとき腑に落ちた。


内田氏ブログ20110112 から 気になった箇所をメモす。死者と私との関係について
考えるヒントになった。氏にとって
レヴィナスの存在するとは別様にという言葉が腹に落ちる機縁となった体験を語った箇所。