おとながこどもにしなければならないこと

"おとながこどもにしなければならないこと"
と題を与えて考えてみる。


正しい信仰を持ち、それを次世代
に伝えることだと思う。
こんなことを言うと、
ちょっとまて、と言われそうだ。
現代社会には迷信が一杯あるからだ。
迷信と正しい信仰と仕分けなければならない。
仏教の歴史の中でも、正信と迷信を分ける作業に
多くを費やしてきた。現在も、また他の宗教に
おいても行われている。

信仰をもたない現代人もそのような
努力をしなければならないだろう。
おとなは、その作業をして伝えてほしい。


では、宗教とはどのようなものだろうか。
第一に、
自らのありのまま
の姿を知ることがある。
わたしたちは自分の未熟さを
知っているだろうか。


年をとって経験をつみ重ねたからといって、
自らの姿をありのままに知ることが出来るかと
いうと、そうもいかない。
こころは日々刻々と移り変わり
ありのままの姿をとらえることは難しい。



宗教は、みずからの姿を
ありのままに写し出す鏡である。


そして、宗教はまた
いまここにあること自体の大切さを
知らせる。
わたしたちは、そのことをまた、知ることが
出来ないものである。
健康であり続けると
健康のありがたさがわからない。
病気になって初めて気づく健康である
ことの意味。
そのように、
いま生きていること自体のありがたさは
人間のなかならは実際には見えない。


人生のもつ大切な意味を知らずに、
私たちは宗教なんて要らないと言って
生活している。
それは健康しか知らない人のようなものだ。
本当の健康のありがたさを知らない。
そのような人は、折角享受した
大きなめぐみを無駄にしてしまうかも知れない。


おとなが子どもたちにしなければならないことは、
何千年も大切に伝えてきた宗教を自らのものにして
子ども達に、ともに生活するなかで伝えること。
人生は、あてにしたものがあてにならず、思い
通りにならないことも多い。そんな苦難があるにも
関わらず、いや、あるからこそ生きる意味があるとも
いえる。
宗教心を持つことによって、そのように勇敢に
人生の意味を深めてきた先人たちがいる。


童話作家の宇野先生が教えてくださった
井村さんの詩を紹介しよう。
頂いためぐみに気づくことは簡単なようで
実は私たちの能力では不可能に近い。
そのことを教えてくれる詩だ。


あたりまえ 


こんなすばらしいことを
みんななぜよろこばないのでしょう
あたりまえであるということを


お父さんがいる
お母さんがいる



行きたいところへ自分で行ける
音が聞こえて 声がでる


誰もこれを喜ばない
あたりまえだと笑っている


ご飯が食べられる
夜になると眠れる
そして朝がくる


空気が胸一杯吸える
笑える 泣ける
叫ぶことが出来る
走り回れる


みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを
みんな喜ばない


そのありがたさを知っているのは
それを無くした人たちだけ
なぜでしょう あたりまえ



気づかなければならない
めぐみの当体は、人生を賜ったことである。
それは失ってからでは、遅い。だからこそ、おとな
たちはそれを自らあきらかにして伝えてほしい。
そして、めぐみの大きさに気づいた者は、
むやみに人を傷つけたり、
自暴自棄になって自分自身を傷つけることから
も遠ざかるだろう。