いのちの事実=残酷なことも見なければならない

今日午前中にSさんの招集で、
先日の田中さん等の公演の合評会のようなものが
開かれた。
物語はこどもの死をテーマにしたもの。
愛するものとの分かれが
遺されたものにどのようなメッセージとして
あるのか。


お寺がおこなっている葬儀の意味と
重なる。
それをもう一度明晰にしようという営み
がここでおこなわれるとは面白い。


忙しさに取り紛れ
日々問い直すことはないが、
ときには、
親しいものとの死別を思い出すこと。
また、これから
愛する者達と別れがやってくること、
私自身に必ずやってくる死を
思う。
それは、
生きていくこの場において
おおいに意味がある、
というより
よくいきるうえで必要不可欠なものだ。



住職になったころ、
死を看取るをテーマに、勉強会が医師や看護師と持たれた。
そのとき読んだ
アルフォンスデーケンの著作にこんな場面が
あったことを思い出す。


それは、子を看取った父親のレポートだった。
死期近づく子どもが、
看病に疲れて寝入ってしまった自分に
毛布をかけてくれていたという。
みじかい文章だったが、
その別れのときを思い胸を詰まらせた。



生きるていくというのは
だれも
このような残酷な別れにあわなければ
ならない。
だが、そういう事実に立ち返ることが無ければ
私たちは、本当はまっとうに生きられない。


「いのち輝く」には、
この残酷ないのちの事実をとおさなければならない。