真宗の教えー自分にとってはっきりしたい箇所

平野修師 教行信証に学ぶ より

おもいあたるところあり。
記録しておこう。
まさに 薄皮一枚 のところ、
あたまで理解しようとして
はらにいまいち落ちないでいる。

教えを聞いているのにもかかわらず、いつの
まにか、傷つけ、他を蔑むようなこころに落
ち込む。それは深い傲慢であると言われる。


 この世をいきておれば、欲もありますし
当然ずるいこころもあります。それを自分
のなかに・・また他の人の行動にも見て、
人間というものは汚いものだと・・。
 少し人間について心を傾けてみればそう
したことは了解できます。
 そのようなことを親鸞は言ったのかとい
えば、そうではない。(中略)

 ただ念仏せよ、ただ念仏であるというこ
の仏の仰せによって、自分がいずれの行も
およびがたき身であり、とても地獄は一定
すみかであるということがはっきりとしら
れたということです。念仏せよとは「仏言」
なのです。仏の言葉によって自分自身がは
っきりと見届けられたということです。
 自分を蔑み他のひとを蔑んでいたという
事柄は、最も深い意味において、人間の傲
慢さをあらわしているのです。(傲慢であ
るのに)そうではないがの如く思っている
ということがあるために、人間というもの
はだめだ。人間など信用できないのだと、
自分をいじめ、他を蔑むということは、実
は、非常に深い傲慢さによるということが
はっきりするのです。