縁起と無我

二三日まえ
偶然テレビを
つけたら、
ブータンのひとが
仏教をよりどころとして生活する
姿が映し出された。


そこで
この
縁起と無我ということばが出た。
縁起は
無数のむすびつきがあって
支えたり支えられたりして
すべてが存在する
私もあなたも、
だから、支え合いささえて貰って
人間の命も社会も成り立っている。
支え合うことでゆったりと生きる
人々がいる。
日本より物質てきには質素だが
はるかに
豊かに生きるひとびと。
そして無我。
おれが評価されるかされないか
おれが無能が有能か
俺の都合通りになるかならないか
その”我”がいかほどのものでもない。
仏教の精神が
人々に深く根付いているありさまを
伝えていた。


この日本でも
つい最近まで(五〜六十年まえ)は
キット浄土が
念仏が
我がどれほどものか、
存在することは
多くのつながりのなかで成り立っていて
今を生きることを感謝する
そんな感覚を呼び起こしていた
にちがいないのに、
と思ったのであった。