ただ念仏せよ、というのは、

仏様のほうの都合でいわれたのではない。
このはしにも棒にもかからない。
わたしの本質を見続けて、すくわんという
その悲願が具体的な形としてあらわれたもの。

名号となったのは、
このわたしに原因がある。
分からないのは、
自分自身。それを見失っているのだ。
まだまだ、能力もあって、善いもんだと
自分自身をみている。