弧食

食事をともに頂くということを、
お寺では(今でもではあるが)
昔はもっと
大事にしてきたのだと思う。

報恩講など一年で一番大事な法会のときは
門徒が支度して、みんなで
お非時を頂く。
仏事をしたときも一緒に頂く。
あれは、仏さまにお供えをしたものを
儀式のあと共に頂いて、その命の根源をともにして
いることを確かめあうという意味があった。


そしてときにはお酒も酌み交わすのだ。
同じものを分け合って、


それがひとの連帯をかたち作る働きをしていた。
だから真宗の寺では大切に伝えてきた。


お勝手の支度は大変だし、


昨今では一緒に食事を摂るために
集まる事自体むつかしい。


それが煩わしい現代人は、
そんなものはなんの価値もないものと見なす
ようになった。
好きな物をいつ食べても良い。


自由気ままでさらくがよい「弧食」である。
だがなんともあじけないものだ。


食はただ栄養があるものを
身体に取り入れるだけのものではなかったのだ。
ともなる命をいきるものという
喜びにみちたものが食だった。
弧食にたいして、共食という文化を持っていた。
このようなものが
破壊されてしまうのは、人間社会の大事な部分が
壊れていっていることを意味しないのだろうか。



写真ー暖かな玄関で、
17年ともにしてきた愛犬が日ごとに弱って
きた。