本山瓦について

志貴野製瓦場について原稿依頼があったので
(頼まれていたことをすっかりわすれていたので急いで書いた)
それを載せよう。ただいま完成!

志貴野製瓦場ー明治期本山の両堂瓦をつくったところ

本山に保管されている志貴野製瓦場の資料を見に行ったことがあります。それは段ボール箱一杯に用材の書類と一緒に出てきました。
木材の資料は絵入りで報告されていました。山での状態が、方角等詳しく説明してあります。切り出すまえに、最適なものを選ぶために情報を全国から丹念に集めたのです。
瓦についても、土の吟味はもとより、磨きを何度も行ったとか、普通にはしない丁寧な工程を経て焼かれたことが伝えられています。
門徒が一丸となって、両堂建立に尽くされた姿が目に浮かんできます。
製瓦場の書類の中には、職人さんへの給金表や、食材や酒の支払いの記録もありました。西尾の商店の名が多く出てきます。工場では、朝の勤行をしてから仕事をはじめ、夕方勤行をして一日を閉じる。仏法を聴聞して、信心の喜びとともに働く。そして時にはお酒も出る。楽しげな姿が目に浮かびます。工場は同信同行が集う信仰の場であったのです。
製瓦場が操業していたのは明治14年から同20年まででした。維新政府が行った廃仏の嵐が吹き荒れた記憶もまだ覚めやらぬこの時に、三河門徒は仏法興隆の志に燃えていたのです。製瓦の費用は莫大なもので、西尾町の歳費の数十年分にあたるほどでした。これはすべて三河の御門徒が拠出したのです。同時に西尾説教場の大伽藍も建立されています。それは大きな負担でした。だが、それを物ともしなかったのです。明治の西尾門徒の「仏法を大切にまもり伝えなければ」という強い気持ちが伝わってきます。