占い、たとえば細木数子氏のことなど、

手話の会のあと、たまたま占いについての話をした。
仏教徒は占いにとらわれない。親鸞ははっきりいわれた。
思い通りになるか、ならないか、幸・不幸にとらわれれば
不安が湧き起こる。この不安はだれにでもあるもの。
だから占いはいつまでもひとを呪縛することができるのだ。
「そんなもん信じない」といっている人も
その不安から解放されているわけではない。
占いを侮って、軽い気持ちで使おうとすると
簡単にその奴隷となってしまうのも、その原因は自分の
なかにあることによる。だから侮ってはいけない。
だが、この不安を見つめていくと、また本当の宗教心を開くこともできる
はずだ。
真実信心がはたらく場もまた、この不安の生である。
その不安に翻弄されている我等衆生
解放しようとする手だてが
実は、本願の念仏なのだ。
自らの論理的な思考を
いくら積み重ねても、この不安からは脱出できないのだ。
その思考を迷いと知らせ、そこから呼び出すものは
真実に目覚めた方、仏陀のちょくせつの呼び出しを聞く以外に
方法がない。
自分の思考ではないもの、他力によるのみ。
その呼びかけを聞き、深く頷くのみ。
幸・不幸にとらわれる状態を迷いと知るのも、
自分の思考の延長線上にあるものではダメだし、
そこから呼び出すものも、である。
だから他なのだ。